大阪地方裁判所 昭和40年(わ)2451号 判決 1965年9月10日
被告人 竹城正明
昭一四・一二・一一生 鉄工事業所勤務
主文
被告人を禁錮四ヶ月に処する。
この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用中証人篠原徳一に支給したものの全部ならびに証人田中一広および同横野正実に各支給した分の各二分の一は被告人の負担とする。
本件公訴事実中道路交通法第七二条第一項前段所定の救護義務違反の点につき被告人は無罪
理由
(罪となるべき事実)
被告人は
第一 呼気一リツトルにつき〇・五〇ミリグラム以上のアルコールを身体に保有し、その影響により正常な運転ができないおそれがある状態で、昭和四〇年二月一四日午後一一時四〇分ごろ、大阪市福島区海老江下二丁目附近の道路において普通貨物自動車を運転し、
第二 自動車運転の業務に従事する者であり、前記日時ごろ前記自動車を運転して前同所附近の道路上を進行中、前記酒気のため注意が散漫となりあまつさえ仮眠状態に陥らんとするほどの眠気をもよおしてきたのであるが、このようなばあいそのまま運転を続けるときは自車を暴走させるなどして不測の事故をひきおこす危険があるから、ただちに運転を中止しなければならない前記業務上の注意義務があるのにもかかわらず、そのまま運転を続けた過失のため、まもなく朦朧とした精神状態に陥り、同所二番地附近にさしかかつたさいそれまでは巾員約一六・三メートルの車道のうち左側部分中央線寄りのところを東進していた自車をして適確な運転操作のないまま急に車道右側(南側)部分上にその右端(南端)近くまで進出するにいたらしめ、おりから同南側部分上南端寄りを第一種原動機付自転車に乗つて西進していた篠原徳一(当時二六歳)に衝突を避ける余地を与えず、自車の前部を右原付前部に衝突させ、同人を原付もろとも地上に転倒させ、その衝撃で同人にたいし約二週間の加療を要する右下腿挫創の傷害を与え、
第三 第二記載のとおり被告人運転の自動車の交通により篠原徳一が負傷したのにもかかわらず、直後現場を通りかかつた警察官やもよりの警察署の警察官に該事故発生の日時場所等法令に定める事項をただちに報告しなかつた
ものである。
(証拠の標目)(略)
(法令の適用)
罰条 第一の事実につき
道路交通法第六五条、第一一七条の二第一号、同法施行令第二七条(懲役刑選択)
第二の事実につき
刑法第二一一条前段、罰金等臨時措置法第三条(禁錮刑選択)
第三の事実につき
道路交通法第七二条第一項後段、第一一九条第一項第一〇号(懲役刑選択)
併合罪 刑法第四五条前段、第四七条本文、但書、第一〇条(重い第二の罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内で処断する)
執行猶予 刑法第二五条第一項
訴訟費用の一部負担
刑事訴訟法第一八一条第一項本文
(無罪となる公訴事実の要旨)
被告人は、昭和四〇年二月一四日午後一一時四〇分ごろ大阪市福島区海老江下二丁目二番地附近の道路において普通貨物自動車を運転中、判示第二事実記載のとおりその交通により篠原徳一が負傷したにもかかわらず、右負傷者である篠原を救護しなかつたものである。
(右公訴事実につき無罪の理由)
自動車の交通により人の負傷があつたばあい道路交通法第七二条第一項前段はその運転者にたいし該負傷者の救護につきいかなる措置をとることを要求しているのであろうか。右救護措置の必要の有無ならびに程度は、負傷の程度およびそのときにおける負傷者の態度等事故直後の諸般の事情により相対的に決せられるべきものである。
ところで本件について証拠を検討すると事故直後の事情につきつぎのようなことが認められる。すなわち
単車もろとも地上に転倒した篠原は右足首が痛むのでしばらくは立ち上らず歩道にすわつていた。一方酒に酔つて事故を起した被告人は衝突と同時に停止した自動車の運転席でしばらくじつとしていた。篠原がこの被告人に対し「降りてきて単車を起してくれ」と言うと被告人は降りてきて単車を起そうとした(もつとも酒気のためふらふらして起すことができなかつた)。そのころ篠原は自分で立ち上つたが、実際は六、七針縫うほどのけがをしていたのに、同人自身ねんざ程度の負傷と思つており靴下を脱いで傷の程度を調べてみることもせず、被告人にたいしても「足が痛い」と言つただけであつた。この篠原にたいし被告人は自己の名刺を渡しその勤務先(当時被告人は勤務先の工場長の地位にあり社長の家に同居していた)を知らせるなどした。その後しばらくして(事故後五分もたたないぐらいのうちに)田中一広が自動車に乗つて現場を通りかかつたがそのときは被告人と篠原は二人とも立つて大声で話合つていた。右田中は「おれが仲へはいつてやるから話をつけ」と言つて二人の話を聞いていたが、篠原運転の単車の前輪やハンドルが損壊しており、二人の話の内容はこの損壊にたいする弁償をどうするかということばかりであつて篠原の負傷の点について触れるところがなかつた。そこで田中は「けがの方はどないや」と聞いたが、これにたいする篠原の返事は「ちよつとしたけどたいしたことはない。そやけど車がものすごくいたんでいるし……」と言うだけであつて、篠原はそれ以上何も言わず、二人は田中を仲に立て再び単車の損壊にたいする弁償の話を続けた。この話合いの途中警ら中の制服の警察官がそばに来て「何かあつたんか」と尋ねたが、田中が「いや何もおまへん、ちよつとしたことですねん、知り合いでもう話ついてまんねん」と答えただけで篠原は同警察官にたいし負傷のことはもちろん交通事故があつたことについて何もしやべらなかつた。この警察官がすぐ立ち去つたのち、篠原は、被告人が酔つているので被告人勤務の会社の人にも現場に来てもらうなどして単車の損壊にたいする弁償の話をつけておきたいと考え、電話をかけるため、一六メートル余の車道をびつこを引きながら横断して公衆電話器のところまで行つた。そのさいにも篠原は自己の負傷につき電話を通じて他に救護を求める意図はなんら持ち合わせていなかつた。
以上のごとき事情にあつたことが認められる。
これによつて考えるに、
一 受傷直後は負傷部位が痛くて歩道上にすわつていた篠原がまもなく自分で立ち上つた段階において、すでに被告人の救護義務違反の罪(行為)が既遂に達してしまつているとみるのは相当でない。当時の被告人の立場にあつた者としてはなにはともあれ歩道上にすわつている篠原のもとにかけ寄り、みずから進んで靴下を脱がせるなどして負傷の程度をたしかめ(負傷の部位が右足首のあたりであることは篠原の態度でわかる)、また同人に手をかして立ち上るのを助けてやるべきであるという論もあるであろう。しかし、このうち立ち上るのを助けてやる点は、ただ立ち上らせただけでは救護として無意味であり、むしろ痛くてすわつているのをすぐに立ち上らせようとするのはかえつていらぬおせつかいである。また、被告人がその余の措置をなんらとらなかつたことも、ことに事故直後の瞬間性を考慮するとき、いまだそれだけでは救護義務違反の罪を成立させるものではない。なぜなら、被告人が事態の有様を認識しそこにおいてとるべき救護のための行動を決定し得るためにはある程度の時間の経過が必要であるし、このために最少限度必要な時間が経過しているとしても、元来救護義務違反の行為は事態が必要たらしめている救護の措置をとる意思のないことを確定的に表現しているとみることのできる挙動を示すことによつてはじめて成立するものであるから、その後の情況をも包括的に観察することが可能であり、篠原が立ち上つたのちにおいて被告人が必要な救護の措置をとつたとすれば、あるいはみずから救護の措置をとることを必要としない事態に立ち至れば、結局において救護義務違反の行為が成立するにいたらなかつたとみるべきであるからである。
二 本件ではその後においても被告人はなんら救護の措置をとつていないのであるが、篠原が自分で立ち上つたのちは事態の推移のため法律上被告人に救護義務がある(救護義務の違反があるとして被告人に刑責を問い得る)とはいえない情況に立ち至つたので、結局全体として観察し被告人に救護義務違反の罪が成立しなかつたと考えるのが相当である。この情況の重要な点として、篠原の年令、性別のほかつぎの諸点を考慮に入れるべきである。すなわち
1 負傷の程度がただちに事故現場での応急の手当(たとえば人工呼吸、止血、負傷部位を安静にするための介添等)を必要とするほど火急のものでないことは篠原の挙動だけからも理解することができる。
2 とすれば、当時酒に酔つていた被告人がみずから車輛を運転して篠原を他へ運ぶことはかえつて危険であり、応急にとり得る措置としては通行人または近隣の者に助けを求めたり、電話をかけて医師もしくは官公署その他の団体またはその他の私人に連絡をとる程度のことしか考えられない。
3 ところが、自分で立ち上つた篠原は自動車から降りてきた被告人とかなりの時間話合つているのに、この間被告人にたいし負傷にたいする救護を求めたことがなく、また被告人以外の者に救護を求めようとすればたやすく求められる機会がいくらでもあつたのにこれを利用しようとする態度に出なかつた。
4 その前に負傷の程度を局所を目で見る方法でたしかめることが問題になるが、篠原は自分ですら靴下を脱いでまでしてこれをたしかめようとしていないのであるから、被告人が言うても被告人に右のようにたしかめるだけの機会を与えたかどうかはわからない。
5 篠原はたんに消極的に救護を求めなかつたばかりでなく、
イ 自分で立ち上つた前後に靴下を脱いでまでして負傷の程度を目で見ることはしていない。
ロ そして、負傷のことはそつちのけにして単車が損壊したことにたいする弁償の話をつけることに専念している。
ハ その話の途中、田中がそばに来て事故に関心を払い、負傷のことを尋ねているのに、「たいしたことはない」とその場かぎりの返答をしただけで、すぐに話を物損の方にもどしている。
ニ さらに制服の警察官がそばに来て「何かあつたのか」と尋ねているのに、負傷のことについてはもちろんのこと、事故があつたこと自体についても口をつぐんでいる。
ホ 物損にたいする手当のためには電話をかけに行くが、そのさいにも負傷にたいする措置をとることは考えていない。
6 この篠原の態度は、被告人をはじめ事故を知つてその場にいる者にたいしあえて救護を求める意思のないことを表現しているととつてさしつかえがないし、それらの者をして負傷にたいする関心を薄れさせ、負傷にたいする関心をなくさせるに値するものである。
7 この篠原の態度にもかかわらずなお進んでなんらかの応急の措置をとらなければならないと被告人に感じさせるほどに、負傷の程度が重いと見受けられるような挙動はなかつた(道路を横断するときびつこを引いていたことだけでこれを肯定するほどのことはない)。
8 そして、篠原がこのように被告人その他の者にたいして応急の救護のための措置を求めず、これを必要としないと感じさせるに足りる態度をとつたことについては、被告人の積極的でない態度が影響を与えていないとは言えないであろうが、とくに被告人の一方的または制圧的な言動に基因すると認め得るだけの証拠はない(被告人は篠原との話合いのさい、酔にまかせて大声を出し、前記田中も最初は被告人の方が被害を受けたと感じたぐらいであるが、このことだけで右のように制圧的であつたとすることはできない)。
以上の諸点を重点として考慮するとき、被告人は篠原が前記のごとく向い側歩道附近の公衆電話器のところに着いたところ自動車を運転して現場を立ち去つているのであるが、この立去り行為はもちろんのこと、それまでに負傷にたいする救護の措置をとらなかつたことについてはなお道義的には非難し得るとしても、すでにそのときまでに道路交通法第七二条第一項前段が命じている救護の措置を必要としない情況が設定されてしまつたと考えるのが相当である。
以上の検討にしたがい、前記公訴事実については犯罪の証明がないものと判断する。
(裁判官 岡本健)